Trivia!
明治44年、日本のカフェ史に名を刻む3軒のカフェが銀座にできた
関東大震災後、銀座のカフェにエロの波が押し寄せた
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明治44年、「カフェー・プランタン」「カフェー・ライオン」「カフェー・パウリスタ」と3軒のカフェが銀座にできると、瞬く間にコーヒーが普及し始めます。
銀座は数多くのカフェであふれ、それぞれのカフェが工夫を凝らした装いで客を迎えました。
ところが、そんなどこか気取った銀座カフェの様相がエロな方向に変化していくのです。
ターニングポイントは大正12年(1923)の関東大震災でした。
関東大震災からの復興期。それは「エロ・グロ・ナンセンス」の時代
大正12年(1923)におきた関東大震災。未曾有の大地震による大火で、銀座の街は灰燼に帰します。
しかし、焼け野原となった銀座の復興は早く、焼け跡には次々とバラックが建ちました。
カフェの状況を見ると、パウリスタは震災により喫茶店事業から撤退(1970年に復活)。プランタンは一時的に神楽坂に店を移しています。
震災後の銀座には新興のカフェが数多くできました。なかでも、女給が接客して酒を出す、いわばホステスがいるカフェの形態が増えます。
「エロ・グロ・ナンセンス」といえば、大正末期から昭和初期の文化的風潮ですが、銀座にできた新興のカフェはその象徴ともいえるものでした。
もちろん、すべてのカフェがエロを売りにしたのではありません。
当時のカフェにはコーヒーと軽食だけで酒を出さない店と女給がいて酒を出す店とがあり、後者が全盛となっていくわけです。
女給を目当てに男が集まるカフェ
大正13年(1924)、ライオンの筋向いに誕生したのは「カフェー・タイガー」。
ライオンの女給が和服に白いエプロンで首から鉛筆をぶらさげた「働く女性」のスタイルだったのに対し、タイガーの女給は芸者風、女子学生風、奥様風と完全に色仕掛け路線。
さらに銀座で一世を風靡したのが「カフェー・クロネコ」。女給だけではなく、店内の装飾も華やかになり大理石の円柱がピカピカ光っていたといいます。
その様子は、戦後のキャバレー隆盛と似ているかもしれません。このころ、銀座の女給の出生地は博多、熊本、福島、仙台、青森、北海道と全国的になったそう。
女性が故郷を離れ、一人でも生きていける場所が銀座だったのかもしれませんね。
銀座は「男と女」の街に
昭和初期の銀座を描写した一文が『大東京寫眞帖』にあります。これが興味深い。
「試みに夜尾張町(現在の銀座5,6丁目)の角に立って街上の風景を見るがよい。電車のスパーク、自動車の警笛、オートバイの警音、ショーウィンドーのきらめき、広告塔の明滅、交通整理のゴー・ストップの青と赤、人間の波、波、波、男、男、女、女の波である」
都会の刺激がひしめく銀座の街、そこに集まる男と女。
このころの銀座には大阪から数多くのカフェが進出してきました。売りはずばりエロです。
美術史家・安藤更生(あんどうこうせい/1900~1970年)は『銀座細見』のなかで大阪資本のカフェを「大阪娘、大阪エロの大洪水」と表現するほど。
永井荷風も銀座カフェのエロ隆盛を回顧しています。
「銀座通りの裏表に所を選ばずに蔓延したカフェーが最も繁盛し、また最も淫靡(いんび)に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和7年の夏から翌年にかけてのことであった。いずこのカフェーでも女給を二,三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる」
荷風が、女給による接待を「淫靡」と書いたのには事情があります。
松崎天民の『銀座』に書かれたとある女給の言葉が参考になるかもしれません。
「どうせ私たちのような境遇ですもの。男の方々ばかりに接近しまして、生活している女の群れなのです。
二人や三人に浮名が立ったり、三人や五人に間違いがあっても仕方がないと思いますわ。お客と女給の関係ではなくて、男と女の問題ですもの。(中略)
それを一口に、近頃のカフェー女は淫売をするとか、金さへ出せばどうにでもなるとか、様々に取り沙汰されます。それを残念に思いますけど…。」
すべての女給がそうであったわけではありません。しかし、当時、一部の女給、一部の店に売春を含むサービスがありました。また、女給は客からのチップも収入源だったために色気を武器に立ちまわる女性もいたのです。
酒と女給による接待があってのカフェですから、下心たっぷりの男はカフェで働く女給全体をそう見る傾向があり、実際にそういう会話が多く交わされたのでしょう。
エロがない純喫茶の誕生
カフェが過激化する状況に警察も黙ってはいません。
昭和8年、その取り締まりとして「特殊飲食店営業取締規制」を出します。簡単にいうと、女給をおいて客の接待をさせる店に罰則を設け規制するもの。
これにより、酒の提供と女給のサービスが一体化した店を「特殊喫茶」と呼び、酒の提供と女給による接客がない店を「純喫茶」と呼ぶようになります。
規制の効果でしょうか、それとも過激なカフェの乱立に客が飽きたのでしょうか。エロを売りにしたカフェは銀座から姿を消し、時代はエロなきカフェへと入れ替わります。
昭和11年(1936)、銀座にまぎれない純喫茶が誕生します。それが「銀座トリコロール」。
創業者は柴田文次(しばたぶんじ)で、この人は横浜に本店を置いた「木村商店(現キーコーヒー株式会社)の創業者でもありました。コーヒーの普及を目的に銀座トリコロールを開店したのです。
銀座老舗カフェ②
銀座トリコロール本店
レンガ壁の瀟洒な建物。入口中央には重い木製の回転扉があります。この扉をくぐり店内に足を踏み入れると、そこはドラマのワンシーンに見るようなレトロ空間です。
<店舗情報>
【住所】東京都中央区銀座5-9-17
【電話】03-3571-1811
【営業時間】8:30~18:00(月~金)、8:00~18:00(土、日、祝)※年中無休(事前にご確認ください)
暗黒の時代からコーヒーの復活へ
やがて日本は太平洋戦争へと突入します。すると、コーヒー豆の輸入が規制され、コーヒー製造にかかわる原材料が入手できなくなりました。
コーヒーはもはや贅沢品とされ、愛好家には受難の時代に。当時は、コーヒーに味を似せた代用品でコーヒーへの飢えをしのぐしかありませんでした。
代用コーヒーの材料は大麦、とうもろこし、大豆などで、どんぐりを使用した例もあります。
カフェや喫茶店の数は当然、激減します。学生が喫茶店へ出入りすることも禁じられ、警察が抜き打ちで喫茶店に踏み込む学生狩りも行われたといいます。まさに暗黒時代。
終戦後、待望のコーヒーが輸入再開されたのは、1950年のことでした。これにより、喫茶店の数は徐々に増えていきますが、当時はスターバックスやドトールといった大手チェーンがなく、個人が経営する店がほとんどでした。
そのような時代背景のなか、1948年、ある名店が銀座に誕生しています。
「珈琲だけの店」としてコーヒー通から愛される「カフェ・ド・ランブル」です。
創業者の関口一郎さんは2018年、103歳で亡くなりましたが、100歳を超えてなお店頭に立ったコーヒー界の伝説。匠の技は今も生きています。本当に美味しいコーヒーなのです。
その特徴は、生のコーヒー豆を10年以上寝かせて、熟成させてから焙煎するオールドコーヒーと呼ばれる手法。初めて飲むと驚きと感動の波が押し寄せます。
大地の香りが凝縮した深い味わい。銀座の老舗カフェのなかでも一番に推したい店です。
銀座老舗カフェ③
カフェ・ド・ランブル
画像のコーヒーは1903年植のブラジル(サンタアリーナ古木)ストレートシングル。百年樹から採取した豆を寝かせて焙煎したコーヒーです。
<店舗情報>
【住所】東京都中央区銀座8-10-15
【電話】03-3571-1551
【営業時間】12:00~20:00(月~土)、12:00~19:00(日、祝)※年中無休(事前にご確認ください)
美味しいコーヒーを落ち着いた空間でゆったりと飲む。そんな至高の時を提供してくれる名店を銀座のカフェ史とともにご紹介しました。
銀ブラするときは、ぜひ今回の話を思い出してください。
参考資料
『カフェと日本人』高井尚之
『喫茶店の時代』林哲夫
『葛飾土産』『銀座』永井荷風
『銀座細見』安藤更生
『銀座』松崎天民
『大東京寫眞帖』
『職業婦人調査 女給』大正15年