歴史と文化のトリビア

江戸の人は肉が好き? 肉食と遊女の江戸文化

Trivia!

明治時代より前、肉食は日本人にとってタブーだった

江戸時代、江戸市中には幕府が公認していない私娼街「岡場所」があった

両国橋東側の袂(たもと)に「ももんじや」という店があります。1718年創業の老舗で店頭にある猪の剥製が目を引くこと。猪肉や鹿肉などを食べさせてくれる老舗です。

あれ? 江戸時代っていわゆる肉食はタブーじゃなかったの? そうです。タブーのはずでした…。

「ももんじ」とは「百獣」が由来⁉

そもそも「ももんじ」ってどんな意味でしょうか。日本国語大辞典を引いてみるとこうあります。

「猪(いのしし)、鹿(しか)、狸(たぬき)などの獣をいう。また、その肉」

一説では「ももんじ」とは「百獣(ももじゅう)」が転訛したとされ、江戸時代の獣肉店は隠語「ももんじ屋」「獣屋(けだものや)」と呼ばれたそう。

しかし、日本人と肉食の歴史を振り返るとき、7世紀、仏教に帰依した天武天皇が「肉食禁止令の詔」を出して以来、肉食(牛や馬、犬、猿、鶏)を禁忌とする食文化でした。

他の獣肉についても同じで、仏教で禁じる「殺生」や神道の「穢れ」と密接に結びついて、肉食とは悪しきこととされてきたはずです。

でも「ももんじ屋」が江戸にはあったのです。

店舗の外側に陳列された猪の剥製に立ち止まる人が多数。

「ぼたん」に「さくら」。肉の隠語は現在でも用いられる

ここで一枚の浮世絵を見たいと思います。広重の『びくにはし雪中』。

絵の右側に「〇焼き 十三里」とありますね。〇焼きとは丸焼きのこと。栗(九里)より(四里)うまいから、九+四で十三里。焼きいものことです。寒い日のホクホク焼きいも。たまりません。

絵の左側を見ると「山くじら」とあります。山鯨は猪肉のことで、表立って「猪肉だよ」とはいえない食文化ですから、猪じゃなく「山鯨の肉」だよということにして店を構えたのです。

歌川広重『名所江戸百景 びくにはし雪中』(国会図書館デジタルコレクション)

また、猪肉は「ぼたん」といいます。鹿肉は「もみじ」で馬肉は「さくら」。鶏肉は「かしわ」ですね。これらは元をただせば獣肉の隠語だとする説が有力です。

猪肉は濃い紅色をしていて、色合いの似た植物の牡丹が語源になったと。また、新鮮な馬肉は桜色をして、柏(かしわ)の葉は時期によって暗い茶色で鶏肉と似た色をしています。

「もみじ」はというと、花札の十月札「鹿に紅葉」からついたそうで。こうなると洒落のネーミングですね。

ちなみに誰かを無視する「シカト」。この札の鹿がそっぽを向いた十月札であることに由来します。シカに十ということで。

花札の十月札。

さて、このように肉を隠語で呼んだのも肉食に対する禁忌があったからにほかなりません。特に第5代将軍・徳川綱吉の治世では「生類憐みの令」により動物の殺生は絶対に許容されない行為となりました。

将軍様だって肉を食べていた

では、江戸時代の他の将軍様はどうだったのでしょう。

享和3(1803)年の「御城使寄合留帳」という記録が興味深く、そこには彦根藩が将軍家や諸大名に牛肉を献上していたことが記されています。

もっとも、彦根藩が牛肉を献上したことには、その背景がありました。中国の薬学本『本草網目』健康な黄牛(中国や周辺の国で農耕に用いられた黄褐色の牛のこと)の肉は滋養に良いと書かれているのです。

つまり、滋養のため。

病人が滋養強壮や薬として獣肉を食すのは仕方ないことじゃないか。それを「薬食い」と呼びました。

方便ともいえそうですが、江戸の人々が「薬食い」と称して肉を食べていたことは事実でした。

江戸にあった有名な「ももんじ屋」には麹町の甲州屋、山奥屋、両国の豊田屋などがあり、いずれも獣肉を提供する店でした。豊田屋はのちに「ももんじや」と名称を変え、それが冒頭で紹介した両国橋の袂に今もある店です。

比丘尼の宿には私娼がいた?

『びくにはし雪中』についてもう少し探ってみます。一説によると「びくに(比丘尼)橋」とは、ここに比丘尼の宿があったことに由来するといいます。

比丘尼は尼僧を意味するほか、尼僧姿の私娼のこともいいました。つまり、比丘尼の宿とは私娼がいる宿だったとも考えられるのです。

ここで、江戸の遊女についてざっくりと。

江戸の社会は、男女の人口比率が完全に男性過多でした。幕府公認の吉原遊廓が成立した背景にはこの人口比の問題もあります。

時の政策による変化はありますが、吉原遊郭のほかにも、公認されてはいない、いわばお目こぼしの私娼街があり、そのような場所を岡場所と呼びました。

岡場所がどんな場所にあったか。

なんと人で賑わう有名な寺社の門前に多くあったのです。

例えば、天保の改革(1842年)以前、江戸屈指の岡場所は深川で、富岡八幡宮の門前です。そのほかにいくつか例をあげると、根津の根津神社、音羽の護国寺、両国の回向院、市谷の市谷八幡の門前などにも岡場所がありました。

富岡八幡宮

吉原遊郭が岡場所の取り締まりを訴えていた

江戸市中に岡場所がどれほどたくさんあったか。寛政の改革(1793年)で55箇所天保の改革で27箇所の岡場所が取り潰されたことからもその数が分かります。

岡場所ができたルーツには、幕府が準公認的に品川、板橋、千住など江戸近郊の宿場町に許した「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる遊女の存在や、江戸市中において「湯女(ゆな)」と呼ばれる風呂屋抱えの遊女がいたことがあげられます。

名声を得た湯女としては江戸初期の勝山太夫がよく知られます。

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しかし、岡場所に人が集まるようになると、幕府公認である吉原遊郭が打撃を受けるわけです。ですから、吉原遊郭は岡場所を取り締まる訴えを何度も行いました。

麹町を詠んだ江戸の川柳が面白い

江戸の有名寺社の門前には料理屋や茶屋が並び、やがて遊女を置く店が現れます。一帯は聖と俗が一体化して風紀の緩い場所として発展します。

最後に江戸で最も有名な「ももんじ屋」を。それは麹町平河町の「甲州屋」です。この町には平河天満宮があり、この神社が平河町の由来でもあります。

平河天満宮。
『江戸名所道戯尽十六 王子稲荷狐火』広景(国会図書館デジタルコレクション)

甲州屋があった麹町は「ももんじ屋」の代名詞のような町でした。

江戸時代の川柳では次のように詠まれています。

「きのうまで化かしたやつを麹町」

人を化かすのは狐や狸ですね。それが麹町の「ももんじ屋」で食べられたというわけです。哀れ…。

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