歴史と文化のトリビア

この銃弾は誰を、何を狙った? 東京の街にひっそりと残された戦争の記憶「弾痕」

「東京」の歴史を振り返るとき、平和な時間だけを語ることはできません。

明治維新の際には旧幕府軍と新政府軍による内戦が上野でも勃発しました。太平洋戦争ではアメリカ軍による爆撃が東京の市街地を襲っています。

それら戦争の爪痕は消えてはいません。都心には戦争によって刻まれた「弾痕」が現在も残されているのです。

経王寺に残る弾痕。逃げる彰義隊は追撃された

明治元年(1868)5月(旧暦)、現在の上野公園を中心に旧幕府軍の彰義隊と新政府軍の間にわずか一日で勝敗を決する戦争がおきます。それが上野戦争です。

戦争にいたる経緯を見ると、1868年1月(旧暦)には鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、4月(旧暦)には江戸城が新政府軍に明け渡されています。

時代の趨勢は新政府軍にあったわけですが、江戸には旧幕府を擁護する者も多く、前将軍徳川慶喜を護衛する目的で結成されたのが彰義隊でした。

明治新政府にとって武力を有する彰義隊はやっかいな存在です。解散命令を出しても従いません。

1868年5月15日(旧暦)、大村益次郎(おおむらますじろう/1824~1869年)が率いる新政府軍は彰義隊の討伐作戦を開始します。

アームストロング砲と呼ばれた大砲をもつ新政府軍と、刀を主力武器とした彰義隊では戦力の差が歴然としていました。

上野の山には彰義隊の屍が並び、命からがらに逃げ出す者が多数いたといいます。

経王寺(荒川区西日暮里三丁目)。
経王寺の山門に残る弾痕。

経王寺に残された弾痕は、潰走する彰義隊をかくまったことで、新政府軍の追っ手により銃撃されたものです。今も生々しい痕跡を見ることができます。

上野戦争の際の弾痕については、寛永寺輪王殿に移築保存されている寛永寺旧本坊表門(黒門)にも残されていますね。

寛永寺旧本坊表門(黒門)。

東京の空にB29の編隊が現れた日

江戸時代、江戸城の築城に際して、鎌倉から運ばれた石材を陸揚げした河岸を鎌倉河岸と呼び、そこに架かる橋が昭和4年(1929)に架橋された鎌倉橋です。

昭和19年(1944)11月24日、東京の空に米軍爆撃機B29の編隊が飛来します。それは東京を襲った初めての本格的な空襲で、その爪痕が鎌倉橋に残ります。

欄干に見ることができる弾痕は、米軍による爆撃と機銃掃射によってできたもので、その数、大小30個ほど。

異説もあります。これらの弾痕は米軍によるものではなく、迎え撃つ日本側の高射砲の不発弾によるものだとする説です。

その真相ははっきりしませんが、大手町に近い東京の中心地が戦場となったことに間違いはありません。かつての戦争は、これほど身近な場所を戦場としていたわけです。

橋の袂には千代田区による説明板が立てられています。しかし、これを立ち止まって読む人は少なく、多くの人がこの弾痕に気づかず通り過ぎていきます。


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神域に刻まれた弾痕

千代田区平河町に鎮座する平河天満宮

菅原道真を祀る神社で大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の米軍による爆撃などで社殿のほとんどを失った神社です。

現在の社殿は昭和44年(1969)に再建されたもの。境内を見れば区指定の有形文化財である銅鳥居の柱木に無数の弾痕があります。

これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるもの。しかし、なぜこんなところに。いったい誰を、何を狙った弾痕なのでしょうか。

戦時中、低空で飛行する米軍の戦闘機が民間人を狙って機銃掃射をしたという証言がいくつも残ることを考えれば、銅鳥居の弾痕にも戦争の恐ろしさを感じずにはいられません。

弾痕の存在に誰も気づかない後楽橋

地上から見えないところにも弾痕があります。

JR水道橋駅西口を出てすぐ、後楽園遊園地に向かって神田川に架かる後楽橋下には米軍による機銃掃射の跳梁弾(跳ね返った弾)痕があります。

橋を食い破るような少し大きな穴は銃弾ではなく不発弾が落ちてできた穴のようにも見えます。

これらの弾痕は船上からでないと確認できませんが、株式会社東京湾クルージングが運営する「神田川クルーズ」に乗船すると案内してもらえます。

クルーズ船の発着場所は日本橋・滝の広場。ご興味のある方はぜひどうぞ。ガイドの方による説明が詳しく、神田川や隅田川の水の流れから江戸、東京の歴史を知ることができますよ。

以上、都心に残る戦争の爪痕を「弾痕」というテーマで探し歩いてみました。近くに寄ることがあれば、ぜひご自身の目で確かめてください。

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