歴史と文化のトリビア

明治時代、新宿二丁目に牛の牧場があった? 大繁華街・新宿が昔はド田舎だったという話

Trivia!

新宿二丁目にあった牛の牧場を経営したのは芥川龍之介の父だった

歌舞伎町は山犬がいて山鳥がさえずるような土地だった

東京最大の繁華街といえば新宿でしょうか。

新宿駅の一日あたりの乗降客数359万人(2018年)はギネス記録で、百貨店のなかで日本一の売上高を記録する店舗は伊勢丹新宿本店です。

ゴールデン街や二丁目のようにアンダーグラウンドな街があれば、東洋一と謳われる大歓楽街、歌舞伎町もあります。

ところが、わずか130年前、現在の新宿駅周辺に目ぼしいものは何ひとつなく、新宿二丁目には牛乳を生産する牧場さえあったというのです。

現在とは異なる中心地・内藤新宿

江戸時代末期の新宿駅周辺を見ましょう。古地図内に新宿駅と記したあたりがそうで、もちろん新宿駅はまだ存在していません。

畑と武家屋敷しかありませんね。新宿という地名もなく、一帯は角筈村(つのはずむら)と呼ばれていました。

江戸切絵図『内藤新宿千駄ヶ谷辺図(部分)』(国立国会図書館デジタルコレクション)

では、人が集まる繁華がどこにもなかったのかというと、そんなことはありません。江戸時代にも人で賑わう「内藤新宿」という町がありました。「新宿」の由来となる宿場町です。

しかし、その場所は新宿駅の位置から少し離れた現在の新宿御苑周辺。

新宿御苑とは江戸時代に高遠藩内藤家の屋敷があった場所で、その門前となる新宿追分(しんじゅくおいわけ/現在の新宿三丁目交差点あたり)から四谷大木戸にかけての甲州街道沿いに宿場の賑わいがあったのです。

内藤新宿は荷馬が多く、その糞も多かった。『名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿』広重(国立国会図書館デジタルコレクション)

甲州街道といえば、江戸時代の主要な道路・五街道のひとつで、甲州街道最初の宿場町は高井戸(たかいど)宿(現在の杉並区)でした。

ここで内藤新宿の成立過程を見ると、江戸から高井戸宿までが遠すぎたという問題が浮かび上がります。

五街道の起点である日本橋から高井戸宿まではおよそ16キロ。他の四街道では日本橋から8キロほどのところに第一宿場があったことと比べると、旅人には優しくない。

そこで、幕府は内藤家の屋敷を一部返上させて、中継の宿場として旅籠(はたご)が並ぶ町の整備を町人に許可しました。それが内藤新宿で、元禄12年(1699)に宿場を開設。「新宿」とは新しくできた宿場町ということです。

幕府に宿場の設置を願い出て、資金を出し、町を整備した町人とは浅草の商人たち。

なぜここで浅草の商人が出てくるのかというと、実利がそこにあったからと考えるのが妥当でしょう。

内藤新宿の旅籠の飯盛女が描かれる。『江戸名所百人美女 内藤新宿』豊国、国久(国立国会図書館デジタルコレクション)

内藤新宿は飯盛女(めしもりおんな/江戸時代、街道の宿場で給仕を行うとともに売春をした女性。幕府非公認のため表立って遊女とは呼べなかった)と呼ばれる遊女を抱えた旅籠を中心にして、盛り場として発展します。当然、そこにはお金が落ちます。このあたりに浅草商人たちの真の目的が見えてきそうです。

このように賑わいを見せた内藤新宿も、やがて風紀の乱れを理由に廃止されてしまいます。徳川吉宗の享保の改革(1716~1745年)によるものでした。しかし、明和9年(1772)に内藤新宿の宿場が復活すると、宿場遊女への規制が緩められたこともあり、再び大きく繁栄していったのです。

明治時代になり茶畑や桑畑が広がった新宿

さて、江戸から明治に時代は変わります。宿場の賑わいがあった内藤新宿とは対照的に、武家地や畑しかなかった現在の新宿駅周辺(角筈村)はどのように変化していったか。

面白いことに、さらに何もなくなるのです。そこに広がったのは茶畑や桑畑。田舎がさらにド田舎になるわけですが、そこにはちゃんと理由がありました。

江戸時代が終わると、武家屋敷はその主人を失い荒廃します。さらに、明治新政府の政策によって、武家屋敷跡の多くが茶畑や桑畑として開墾されていくのです。

紀伊国屋書店創業者、田辺茂一(たなべもいち/1905~1981年)が著した『わが町・新宿』に子どものころに見た新宿の風景が記されています。

たとえば、現在の歌舞伎町一帯について。

そのころは、鬱蒼とした大木が茂っていて、山鳥や山犬がいた

明治末期の新宿も「目星しいものは何ひとつなかった」「ちょっとしたことは、みんな四谷へ行かなければ間に合わない、という新宿であった」と回想しています。

田辺茂一にとって、新宿の原風景とは田舎そのものだったのですね。

新宿二丁目に誕生した牛の牧場と芥川龍之介

江戸時代が終わり、荒廃した武家屋敷は桑畑や茶畑へと姿を変えていきます。内藤家の屋敷も例外ではありませんでした。

明治政府が内藤家の土地を買い上げると、1872年、牧畜、農作物の改良を目的とした内藤新宿農事試験場ができました。日本が近代国家を目指すうえで重要な農業研究を行う場です(農事試験場は1879年、皇室の御料地、農園である新宿植物御苑となります)。

こうして見ると、新宿に牧場があっても不思議ではなく、1892年には現在の新宿二丁目の表通りから少し入ったところに牛乳を生産するための牧場ができています。

それが耕牧舎という牧場で、これを経営したのが文豪、芥川龍之介の父。

芥川龍之介(1892~1927年)。1910~14年まで新宿に住んでいた。

芥川龍之介はその牧場の想い出を『点鬼簿』のなかで「僕は当時新宿にあった牧場の外の槲(かし)の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている」と回想しています。

ただし、この牧場、かなり臭気が強かったそうで、大正2年(1913)に移転命令が出て、廃業しました。そして、耕牧舎跡地には都市の体面を汚すという理由で、江戸から続く表通りの遊女屋が集められ、新宿遊郭と呼ばれるようになります。

これがいまからわずか110年前の新宿の姿です。現在の新宿の姿を見て、新宿二丁目が牛の鳴く牧場だったと誰が想像できるでしょうか。

現在の新宿二丁目。新宿遊郭は戦後、赤線地帯となり現在はLGBTタウンとして知られる。
現在の新宿二丁目。

一日の乗降客が50人ほどだった新宿駅

明治末期になってもド田舎の新宿とはいえ、明治18年(1885)にはすでに鉄道の新宿駅が存在していました。

新宿駅(当時は内藤新宿駅と呼ばれた)は日本鉄道品川線(現在の山手線)の駅として誕生し、その位置は現在の新宿駅とそう大きくは変わりません。

江戸時代ほどではないにせよ、街の繁華は内藤新宿にあるわけですから、現在の新宿御苑のあたりにでも駅を建設すればよさそうなものですが、内藤新宿の住民による反対でかないませんでした。

当時の新宿駅とはいわば町外れにできた駅です。その利用者は一日に50人程度、雨が降ればゼロということもあったといいます。

明治22年に甲武鉄道(現在の中央線)が新宿~立川間で開通し、新宿駅に二路線が走ることになっても駅前には二軒の茶屋があるだけ。

一軒はタヌキを飼っていたことから「タヌキ茶屋」、もう一軒はキツネを飼っていたことから「キツネ茶屋」と呼ばれたそう。のどかな土地だったのです。

ただし、当時の新宿駅は人の輸送より、貨物輸送の中継駅として機能していました。なかでも、鉄道で運ばれてくる薪炭を扱う炭問屋が新宿駅の周辺に数多くあり、そのひとつに紀伊国屋がありました。

現在の紀伊国屋書店。東京都選定歴史的建造物に選定されている。

そうです、田辺茂一が創業した紀伊国屋書店(1927年創業)とはもともと炭問屋だったのですね。

関東大震災が新宿発展の契機

ここまで、明治期の新宿のド田舎ぶりを見てきましたが、では、いかにして新宿はこれほど大きな発展を遂げたのでしょうか。何かしらの契機があったはずです。

それが関東大震災。

大正12年(1923)に首都・東京を襲った未曾有の大地震で被害を受けたのは日本橋、神田、浅草など、主に下町と呼ばれる武蔵野台地下の低地

これに対して武蔵野台地の上にあたる新宿や渋谷などの地域は驚くほど被害が少なかったのです。

関東大震災による東京の被災状況。日本橋、神田、浅草などが全部焼失したのに対し、四谷区の新宿は被害が少なかったことが分かる。『関東大震災寫眞帖』(国立国会図書館デジタルコレクション)。

震災からの復興のなかで、東京東部の低地より、西部の台地上の地域の安全性が見直され、もともとは人の暮らしが少なかったエリアへと人々が移住するようになります。

貨物輸送が中心だった新宿駅も東京西部へと人々が移り住んでいくなかで、利用者が増え、大正14年(1925)には一日の乗降客数が東京駅についで第二位の駅へと急成長していきます。

ド田舎だった新宿駅周辺が今日の姿へと変化するターニングポイントは関東大震災だったのですね。

これ以後の新宿は繁華の中心が内藤新宿から新宿駅の方向へと移っていきます。そのあたりの変化はまた別の機会に。

参考資料

『わが町・新宿』田辺茂一

『新宿の迷宮を歩く』橋口敏男

『江戸・東京の地理と地名』鈴木理生

新宿大通りの歴史「明治の新宿大通り」

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