明和年間(1764~1771年)、江戸の男子を熱狂させた美しい娘がいました。
その名を笠森(かさもり)お仙(1751~1827年)といいます。彼女は名前の売れた花魁などではありません。
ごく普通の町の娘で、谷中にあった笠森稲荷の赤い鳥居前、水茶屋「鍵屋」の看板娘として知られた女性でした。
ところが、人気絶頂のなかでお仙は忽然と姿を消し、それはそれで騒ぎとなるのです。
いったい彼女の身に何が起きたのか。お仙ゆかりの地、谷中を歩いてみました。
わらべ歌で語りつがれる「お仙の茶屋」
向う横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ…。
これは江戸時代から伝わるわらべうたの一節で、大正時代になっても東京の子どもたちが手毬をつきながら歌っていたそうです。
「お仙の茶屋」とは笠森お仙がいた水茶屋(道端や寺社の境内で湯茶を飲ませた茶屋)で、笠森稲荷の赤い鳥居前にあった「鍵屋」のことです。
「鍵屋」を開いたのはお仙の父・五兵衛で、年頃となった彼女が店で茶くみをするようになると、お仙を目当てにした客で大変繁盛したといいます。
お仙のブロマイドならぬ錦絵は飛ぶように売れ、鍵屋では彼女をモデルに手ぬぐいや絵草紙などのグッズも販売したといいますから、現在のアイドルのような存在でした。
いくら美人だったとはいえ、市井の人にすぎないお仙がなぜこれほどに嬌名を馳せたのでしょう。
笠森お仙の美しさは群を抜いていた?
笠森お仙といえば、彼女が人気を博した時代の明和にちなみ、明和三美人の一人として紹介されます。
明和三美人とは浅草の楊枝店「柳屋」のお藤、おなじく浅草の二十軒茶屋にあった「蔦屋」のおよし、そして笠森お仙です。
ところが、およしについてはほぼ記録がないために、詳しくは分かりません。一方で、お藤とお仙は後世に伝わる記録があり、特に鈴木晴信(すずきはるのぶ/1725~1770年)の美人画が知られます。
春信といえば、多色刷りの木版画である「錦絵」の開祖として知られる絵師。よほどお仙を気に入っていたのか、彼女をモデルにした絵を数多く残しています。
その一つにお藤とお仙を一緒に描いた錦絵があります。なんとお藤がお仙のいる鍵屋を訪れたという設定のこの作品。
どちらがお仙だか分かりますか?
状況から見れば、立ってお茶を出す女性がお仙です。でも、二人とも同じ顔に見えますね…。これは気のせいではありません。春信が描く女性のタッチがこうなのです。
鈴木晴信の絵では、二人の美しさを比べることができないとはいささか残念な気もします。
そこで、江戸の文人で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ/1749~1823年)の言葉を借りて、二人の美貌を比べてみましょう。南畝はお藤とお仙について、どちらが美しいかを書き残しています。
ただし、原文は漢文調で書かれているため読みにくい。超訳。
「お仙は生まれながらに麗しく、素のままで美しい。化粧もいらない真の美人」
お藤については「それはもう化粧上手で、櫛(くし)や簪(かんざし)で髪を美しく飾って、これまた美しい」。
結局のところ、どちらが美しいの?と思うわけですが、南畝は王子稲荷に裁定してもらう形でお仙に軍配を上げています。
当時、王子稲荷といえば、江戸にあまたある稲荷神社の筆頭、絶大な人気の神様でした。王子稲荷がお仙と決めるのであれば間違いないと。
南畝はお仙に群がる男たちのことをこう書いています。
「衆人はよだれを流し、団子を買うもその価を問はず、茶をのむもその味を覚えず、ただ茫然と見とれるのみ」
お仙の美しさには江戸の男子も骨抜きにされたのでしょう。
ところで、鈴木晴信の美人画はどれも同じ顔に見えるといっても、笠森お仙を描いた絵を見分けるポイントがあります。「赤い鳥居」や「茶釜」、屋号の「鍵屋(かぎや/かきや)」などです。
この絵もお仙を描いたものだと分かりますね。
お仙がいた本物の笠森稲荷はどこ?
お仙の足跡を探して谷中を歩いてみます。鍵屋はもう存在しないので、彼女がいた笠森稲荷を探すしかありません。ところが、笠森稲荷を探そうとすると、ちょっとややこしい問題が。
谷中にはなんと笠森稲荷が三ヵ所もあるのです。
まずは大円寺。結論からいうと、こちらの笠森稲荷はお仙がいた笠森稲荷ではありません。
「笠森」が「瘡守(かさもり)」に通じることから、疱瘡(ほうそう/天然痘のこと。当時は死を覚悟する恐ろしい病気だった)除けや病気平癒(疱瘡や皮膚病、梅毒など)のご利益を期待して、大阪にあるいわば本家の笠森稲荷から分祀する形で、「笠森」とつく稲荷が全国に広がったのです。
お仙がいた笠森稲荷のほかにも同名の稲荷があったわけですね。
現在の大円寺で見ることができるのは本堂と連結した薬王殿(瘡守堂)です。明治時代の神仏分離で笠森稲荷が瘡守薬王菩薩と改められ薬王殿に。
ほかにも笠森お仙と鈴木晴信の碑、永井荷風による「笠森阿仙乃碑」がありますが、これらは鈴木晴信の百五十回忌(1919年)に建てられたもの。
当時、鈴木晴信の墓所が不明となっており、どこに記念碑を建てるかを悩んだ末、春信といえば笠森お仙と、いわば「谷中の笠森稲荷」を象徴にして、記念碑の受け入れがスムーズに運ぶ大円寺への寄進が決まりました。
記念碑の建立者たちも大円寺がお仙ゆかりの笠森稲荷ではないことは承知のことです。
水茶屋「鍵屋」は現在の功徳林にあった
そもそも江戸時代、お仙がいた笠森稲荷の場所は、当時の谷中で一番大きな感応寺の中門脇、倉地家の地所内でした。
いうなれば個人が勧請した小さな祠で、水茶屋の「鍵屋」も倉地家の同族である倉地五兵衛が建てたもの。そう、この五兵衛こそ、お仙の父親ですね。
感応寺はのちに天王寺と改称し、寺領が小さくなります。お仙がいた笠森稲荷は感応寺の子院、福泉院が引き継いで祀りますが、福泉院は幕末に焼失。
これにより、お仙の笠森稲荷は養寿院へと移転します。つまり、現在、養寿院にある笠森稲荷がお仙ゆかりの本物です。
しかし、福泉院から養寿院へと移転しているわけですから、お仙がいた水茶屋「鍵屋」があった場所からは離れてしまっています。
では、「鍵屋」の本来の場所はというと、それは現在の功徳林寺。同寺は一帯が共同墓地になったときに管理寺として明治26年に創建されたものです。
功徳林寺の境内にも笠森稲荷堂がありますが、これはのちに建てられた記念祠と考えたほうがよいでしょう。
これらの笠森稲荷をめぐる複雑な経緯を散歩視点であえてまとめてみます。
お仙を探して散歩するなら、まず、お仙がいた水茶屋「鍵屋」の場所を訪れたい。それは功徳林寺。
でも、お仙も拝んだ笠森稲荷を訪れておきたい。ならば養寿院。
どうせ歩くなら、笠森お仙と鈴木晴信の碑も見ておきたい。大円寺にも参拝。
せっかくです、もう全て回りましょう。身も蓋もない話にはなりますが…。
お仙の嫁ぎ先はスパイの家柄?
明和7年のこと。人気絶頂のお仙は忽然と姿を消します。鍵屋に残ったのは、老父の五兵衛です。「とんだ茶釜が薬缶(やかん)に化けた」なんて言葉が流行しました。
茶釜とはお仙のこと。お仙に会おうと鍵屋を訪れてみれば、そこにいるのは禿げた薬缶頭の五兵衛だけ…。
お仙が忽然と姿を消したことで、さまざまな憶測が生まれます。しかし、真実はじつにめでたい話で、お仙は結婚をしていたのです。
つまり、江戸を騒がせるほどの美女を射止めた男がいたと。その人物こそ旗本御庭番の倉地政之助でした。
御庭番という仕事は、表向きでは江戸城奥庭の番人。しかし、将軍のスパイとして諜報活動を行う裏の顔があったことはよく知られるところです。
御庭番は隠密のように秘密裡に任務を遂行せねばなりません。また、将軍の権力維持と関係の深い仕事でもあります。
そのため、御庭番は世襲とされ、婚姻するにも同職に就く十七家の間に限られていました。
お仙の嫁ぎ先とは、とても特殊な家柄だったのです。ですから、お仙が突然姿を消して、消息不明と騒がれたのも無理はありません。表に出る「家」ではないのです。
また、結婚したお仙が暮らしたのは桜田門内の御用屋敷だったといいますから、そもそも庶民の目に触れにくい場所でもありました。
その後のお仙は江戸男子の狂乱から解放されて幸せに過ごしたのでしょう。9人の子宝に恵まれて77歳の天寿を全うしたとのことです。
現在、お仙の墓は東京都中野区の正見寺にあります。
参考資料
『考証 江戸の面影一』稲垣史生
『情の江戸時代』小笠原省三