江戸の人物伝

江戸に現れた巨人。大空武左衛門(おおぞら ぶざえもん)

Trivia!

江戸に2mを超える巨人力士がいた

大空武左衛門の身長はピンホールカメラで記録されていた

藤岡屋という噂好きの情報屋が江戸におりまして。彼が残した『藤岡屋日記』の文政10(1827)年の記述にこうあります。

「肥後国益城郡矢部庄田所村産、大空武左衛門といえる大男、江戸に来る也。

今年廿三才(23歳)

身丈六尺五寸

量三十五〆目

手平一尺八寸

足長一尺三寸五分

『藤岡屋日記』

一尺とは30.3cmです。江戸時代、男性の平均身長が157cmほどとされますから、2m近い大男は目立って仕方なかったはず。

どこを歩いても人々の視線を集めたことでしょう。さて、大空武左衛門とはいかなる男だったのか。

大空武左衛門の本当の身長は2m27㎝

藤岡屋の話をもとに計算すると、大空武左衛門の身長は197㎝ほど。しかし、彼が大空を直接見たのかどうかは分かりません。

一方で、江戸の読本家(小説家)、滝沢馬琴は『兎園小説余禄』のなかで大空のことを細かく記しています。

全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ」と。

そのほかに大空の家族や逸話、江戸での注目ぶりまでもが書かれ、大空にかなり関心を寄せていたのではないかと想像できます。

実は馬琴、大空の精密な肖像画を所蔵していました。

それは、友人であり武士で画家の渡辺崋山が大空を描いた絵を写したもの。崋山は現在のカメラの元祖ともいうべき「カメラ・オブスクラ」というピンホールカメラを用いて、大空を描いていたのです。

詳しい原理は省きますが、大空の正確な身長が今に伝わるのはこの崋山の絵のおかげ。

その絵がこちらです。


出典:「Portrait of Ozora Buzaemon, 1827」(クリーブランド美術館)

確かに顔が小さく、腰より下が長く見えますね。そして、この絵を元に大空武左衛門の身長を計測すると2m27㎝になるのです。

生まれつき小心者で温厚な性格

大空は力士として江戸にやってきました。生まれは肥後国、熊本県。細川の殿様が大空を連れてきたわけです。農民の子が殿様に引き立てられる。それほど故郷でも目立ったのでしょうし、目をかけたくなる性格でもあったようです。

生まれつき小心者で温厚な性格だったと馬琴は記しています。父親は他界し、故郷には母親がいて、父母や兄弟はふつうの身長だったと。

力士といっても取り組みを行わず、もっぱら土俵入りを披露するだけ。江戸で相撲取りになることも望みませんでした。

そのため、江戸に長くは滞在せず、細川の殿様に願い出て、故郷へ帰っていきました。その後の生涯は決して長いものではなく、37歳でこの世を去ります。

いま、武左衛門は故郷熊本の戸屋野の山中に静かに眠っています。その墓の高さは武左衛門の身長と同じだということです。

大空武左衛門の手形が富岡八幡宮

言葉は悪いですが、異形の人であったことは否めないでしょう。望まぬ身長だったかもしれませんし、その身長だからこその幸せがあったかもしれません。

大空の人生にはどことなく切なさを感じます。それは江戸時代という閉鎖的な社会で巨人として生きる人生を考えるとき、そこに孤独な悲哀を見るからでしょうか。

ところで、この東京で大空武左衛門に会える場所があります。といってもそれは手形です。富岡八幡宮にある巨人力士手形足型碑のなかに、大空の手があって。

ほんとうに大きな手。

神社の方に聞くと、大空が残した墨の手形を元に制作したそうです。

筆者は身長が177㎝ですが大空の手の半分ちょっと。熊の手のような大きさ。

富岡八幡宮は江戸勧進相撲ゆかりの地

身長2m26㎝、体重172㎏とされる釈迦嶽の等身碑。富岡八幡宮境内にて。

富岡八幡宮は江戸時代の勧進相撲(興行としての相撲)が賑やかに行われた場所。その歴史に由来して大関力士碑や横綱力士碑などもあります。

江戸の相撲というと両国の回向院もよく知られますが、1684年に最初の勧進相撲が行われた富岡八幡宮(深川永代寺)のほうが歴史は古いのです。

大空武左衛門のお話はここまでとして、ちなみに江戸で一番大きな力士は生月鯨太郎といわれます。身長が大空と同じ2m27㎝で、体重が大空より重かった。この人の錦絵もたくさん刷られたんですよ。

歌川国芳『生月鯨太左衛門』(国会図書館デジタルコレクション)
富岡八幡宮に近い! 於三稲荷神社の怪談

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