Trivia!
節分で「福は内 鬼は内」と唱える神社がある
頭上に水鉢を載せた鬼が新宿にいる
歌舞伎町にひっそりと鎮座する「鬼」の神社。
内藤新宿の悲しき投げ込み寺にたたずむ地蔵様。
人食い伝承の大閻魔像。
愛する夫に毒殺された『東海道四谷怪談』の主人公、お岩さん。
新宿を起点に始める今回の散歩テーマは“ディープな伝承”。まず最初に訪れるのは「鬼王」の名がつく恐ろしげな神社です。
「鬼」の字がつく珍しい神社
大歓楽街・歌舞伎町の北側に「鬼」にまつわる稲荷鬼王(いなりきおう)神社が鎮座します。
江戸時代から湿疹や腫物にご利益があるとされた神社で、豆腐を奉納したのち、豆腐断ちをして、授与された「撫で守り」で患部をなでると病気が治ると信仰されてきました。
文豪・永井荷風(1879~1959年)も「大久保百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる」とその風習を記していますから、江戸、東京ではよく知られた神社だったのでしょう。
承応2年(1653)、福瑳稲荷を勧請して祀ったのがこの神社の始まりで、天保3年(1832)に熊野から鬼王権現を勧請して合祀したといいます。
つまり、「稲荷鬼王」とは稲荷社と鬼王権現に由来する社名で、興味深い点は鬼王権現を祀る神社が全国で稲荷鬼王神社の一社しかないということです。
熊野にあったとされる鬼王権現はすでに存在せず、どこにあったかさえよく分かりません。
また、鬼王権現は現在、月夜見命(つきよみのみこと)・大物主命(おおものぬしのみこと)・天手力男命(あめのたじからおのみこと)の三神ですが、これは稲荷鬼王神社が明治時代に新たに定めたものです。
明治政府の神仏分離や邪教を排除する政策の影響があってのことだと推測しますが、江戸時代の「鬼王権現」がどのような姿の神であったのか、その点は謎なのです。
鬼王が平将門であるという俗信
鬼との関係が深い神社ですから、節分会には独特な習わしがあります。
たとえば、豆まき。稲荷鬼王神社では「福は内 鬼は内」と唱えながら豆をまきます。
この場合、「鬼」とは魔物を祓い、人々に幸せをもたらす「善鬼」のこと。善い鬼を「内」に迎えて、悪い鬼を祓ってもらうのです。
では「鬼王」とはなにか。
その答えを探るとき、必ずといっていいほど言及される人物がいます。
それは平安時代、北関東を勢力圏にした豪族、平将門(たいらまさかど/903~940年)です。
将門公は幼名を「鬼王」といいますから、稲荷鬼王神社の「鬼王」は将門公に由来するとの俗説があるのです。
この鬼王=平将門説は鬼王稲荷神社の社史にはない話。もちろん、神社公式の見解にもありません。
おそらく、明治40年に出版された『平将門古蹟考(織田完之 著)』での稲荷鬼王神社と平将門の幼名を関連付ける指摘が発端になったものと思われます。
また、昭和3年には築土神社(つくどじんじゃ/平将門の首桶を祀った神社)が出版した『将門公正伝』で稲荷鬼王神社の由来について『平将門古蹟考』をコピーしたのであろう全く同じ文章が記されています。
それが次の一文です。
「将門の幼名外都(げづ)鬼王と云へるをもて神号となせるなり。今は祭神を変更せり。ただし、知る人は将門を祀れりと称す」
この一文、よく読むと興味深い点が2つあります。
まず、将門公の幼名「鬼王」について。これをそのまま神号にしたと記されますが、そもそも人の名に鬼の字を用いることにはどんな意味があるのでしょうか。
たとえば、怪力無双の荒法師・弁慶(べんけい/?~1189年)の幼名は「鬼若」で、天才能楽師・世阿弥(ぜあみ/1363~1443年)の幼名は「鬼夜叉」だったといいます。
つまり、幼名に「鬼」の字がついた人物は将門公だけではないのです。
民俗学的な考察では、鬼の名をもって鬼(魔物)を遠ざける「魔よけ」と解釈されますが、こういった言葉や文字の感覚は現代人にはなじみが薄いかもしれません。
次に稲荷鬼王神社の御祭神について。鬼王権現とは月夜見命・大物主命・天手力男命の三神です。
ただし、そのように鬼王稲荷神社が決定したのは明治時代になってからのこと。
『平将門古蹟考』が出版された明治末、稲荷鬼王神社が祀る本当の神様は将門公だと語る人たちがいたとすると、それは鬼王権現を月夜見命・大物主命・天手力男命の三神に決定する以前の信仰が民間で伝わっていた可能性もあるのです。
西では反逆者。東では英雄となった将門公
ここで重要な点は、関東の人にとって将門公とは英雄というべき存在だということです。
関東には将門公の伝承と関係する神社がいくつもあり、たとえば江戸の氏神様である神田明神もご祭神は平将門公です。
平安時代、関東は政治の中心である京都から遠く離れ、この土地に暮らす人々は野蛮人であるかのように蔑まれました。
朝廷から派遣された国司は、過酷な税を課し、民衆を虐げます。罪のない人々の苦しみが渦巻く世の中で、平将門は武力で国司を追放し、新国家を築こうとしました。
この行為は、朝廷からすれば紛れもない反逆です。しかし、一方の民衆からすれば解放者だったわけです。
ここに平将門に対する「西」と「東」での印象の違いがあります。
果たして「鬼王」とは将門公のことなのでしょうか。
その真実は明らかにされていませんが、一つ言えることは、怨霊や祟りなどで語られがちな将門公も、関東においては英雄であり、崇敬される人物だということです。
水鉢に伝わる鬼の伝承
稲荷鬼王神社の境内には頭上に水鉢を載せた珍しい鬼がいます。
新宿区教育委員会の掲示によれば
「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている」とのこと。
この水鉢が鬼(災厄)を呼ぶために稲荷鬼王神社へ寄進されたとする由来や、石の鬼の肩に物理的な刀の痕跡があるということに謎めいたものを感じます。
また、鬼を斬りつけた刀は水鉢とともに稲荷鬼王神社に寄進され、刀は「鬼切丸」、水盤は「力様(りきさま)」と呼ばれています。
力様とは、この鬼が力士のように四股を踏んで病や苦しみを追い払っているとの解釈からで、水鉢そのものも、水をかけると子どもの健康と成長にご利益があると「幸せをもたらすもの」として現在では信仰されています。
かつての悪鬼の魂は鎮まり、いまや善鬼になったということでしょうか。
なんとも不思議な余韻が残る神社です。
さて、稲荷鬼王神社の話はここまで。次に向かうは、内藤新宿の遊女投げ込み寺だった成覚寺と閻魔像で知られる太宗寺です。続きはコチラへ。
参考資料
新宿区の文化財(9)民俗・考古(新宿区教育委員会)
『平将門古蹟考』織田完之 著
『将門公正伝』築土神社出版