神社仏閣

残された椋の木と太田姫稲荷神社

Trivia!

一口と書いて「いもあらい」と読む難読地名がある

家康の江戸城拡張で移動させられた寺社がたくさんある

JR御茶ノ水駅の臨時改札を地上に出たところ、聖橋(ひじりばし)の袂(たもと)に一本の椋(むく)の木があります。とても狭いスペースにぽつんと佇み、どこか寂しげ。

よく見ると「元宮」「一口太田姫神社」と書かれた木札が。しかし、周囲に神社を見つけることができません。

なぜここに一本だけ佇むのか。そこには、500年以上前の江戸の領主と姫の物語がありました。

通行人の多い場所。しかし、誰もこの木に気づかずに通りすぎていく。

生死をさまよった道灌の娘

京都府久世郡久御山町に一口(いもあらい)という地名があります。知らなければまず読めない難読地名で、忌み祓い(いみはらい)が転じたとも、「いも」と呼ばれた疱瘡(天然痘)を洗う(祓う)が転じたとも、その由来には諸説あります。

かつて京都の一口には巨椋池(おぐらいけ)があり、一口稲荷神社(現・豊吉稲荷神社)があったといいます。一口稲荷神社は疱瘡平癒の霊験ありと広く知られ、室町時代、江戸を治めた太田道灌(1432~86年)の娘が疱瘡にかかると使いを送り祈願させました。

すると姫は全快。道灌はこれを感謝し、一口稲荷神社を江戸に勧請するのです。

当初は道灌の築いた江戸城の本丸に建立されましたが、1457年に太田姫稲荷大明神と社名を変えて、鬼門封じの守り神として城の鬼門に移されました。

しめ縄が巻かれ、この木が神聖なものであることが分かる。

徳川家康が寺社を移動させた

太田道灌以前に江戸を支配したのは江戸氏です。道灌の築いた城とは、江戸氏が衰亡したのちに廃墟となった江戸館を再構築したものです。

道灌死後の1590年、徳川家康が駿府から江戸に移ります。居城としたのは道灌が築いた江戸城。

ところが道灌の江戸城は徳川家が住むにはあまりに小さいものでした。家康は江戸城を大がかりに拡張していきますが、そのためには道灌が江戸城の内外に勧請した寺社を移動しなければなりませんでした。もちろん太田姫稲荷神社も。

そして、太田姫稲荷神社の移動先こそ、聖橋の袂にぽつんと椋の木が佇む一帯だったのです。

太田姫稲荷神社は疱瘡にご利益のある神社として江戸時代になっても信仰されました。

太田姫稲荷神社の鳥居。
太田姫稲荷神社の社殿。

伊達政宗を独眼にした天然痘の恐怖

天然痘は当時、恐ろしい病気で、独眼竜で知られる伊達政宗も失明の原因はこの病気だとされています。

天然痘ウィルスの感染力は強く、死亡率も高いのです。一命をとりとめても顔や体に発疹の跡が残り、目にできれば失明します。

疱瘡への恐怖は将軍家にとっても同じことです。代々の徳川家はこの神社をおろそかにせず、修理造営を行いました。

この病気がどれほど人々に恐れられたか。江戸時代の人々は、天然痘を「疱瘡神」として祀り、魔よけの赤い色を身に着け追い払おうともしました。

あの手この手でこの病を避けようとしたのです。江戸後期、疱瘡神から身を守る護符がたくさん出回ったことからも、人々の恐れを知ることができます。

『疱瘡神祭る図』(国会図書館デジタルコレクション)
疱瘡神は赤い色を嫌うと信じられたので、子供の着物や風車、デンデン太鼓のほか、神棚にも赤色の物が数多く飾られる。

さて、時は移ります。昭和時代のこと。総武線拡張工事(1931年)のために太田稲荷神社のあった土地が収用されました。神社は再び移動を余儀なくされ、現在地である神田駿河台へと遷座します。

もともとは太田姫稲荷神社の境内地にあった御神木なのでしょう。椋の木だけがいまもそこに取り残されて。

京都と江戸の遠い歴史が、時間と距離を超えて繋がりました。御茶ノ水駅にポツンと佇む椋の木。そばを通りかかった際は、ぜひお立ち寄りください。

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