Trivia!
室町時代、地獄太夫と呼ばれた伝説の遊女は一休と師弟関係にあった
明治時代、地獄太夫の再来と評判になった遊女は人気絵師の月岡芳年と深い仲だった
「我死なば焼くな埋むな野に捨てて飢えたる犬の腹をこやせよ」
無常に満ちた辞世の句。これを詠んだのが地獄太夫(たゆう)です。
室町時代に実在したという遊女。
時は流れ、明治時代に「地獄太夫の再来」と評判の遊女が東京にいました。その名を幻太夫といいます。伝説の二人の遊女を追いました。
心で念仏を唱え客を迎える
幕末、明治期の人気浮世絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)が描いた『地獄太夫 悟道の図』。消え入りそうな白無垢に地獄絵の打掛を羽織り、背後の骸骨たちは何を語るのか。
地獄太夫はもともと武家の娘でしたが、山中で賊につかまり、その美しさゆえに遊女として売り飛ばされた悲運の女性です。
このようなひどい仕打ちを受けるのは、きっと前世からの因果に違いない。この世は地獄と我が身を憂い、自ら地獄を名乗ったといいます。地獄絵の打掛を羽織り、心で念仏を唱え、口では歌いながら客を迎えて。
江戸から明治時代にかけて数多くの絵師によって描かれました。
地獄太夫と一休の師弟関係
いわば伝説ですが、彼女の物語のなかで欠かすことのできない存在があの一休さんです。
一休禅師が今の大阪、堺に赴いたとき、浮世の遊里で地獄太夫と出会います。二人は当意即妙のやりとりを交わし、引き寄せられるかのように師弟関係を結びます。
一休といえば、戒律を破る破壊僧で奇行ともいえる逸話で知られる人。
「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
この句を詠みながら手に持った竿の先に人間の髑髏(どくろ)を刺し、京の町を練り歩いたといいます。
正月に浮かれる人々に明日の命があるかも分からない現世の「空」を説いたのでしょうか。
一休が書いた『一休骸骨』という本では仮名書きの説教に骸骨の挿絵が添えられ、骸骨たちは踊り、抱き合い、人の営みを繰り広げます。
一皮むけば人はみな骸骨。人間の「生」とは常に「死」とともにある。
一休と出会った地獄太夫はその後、若くして亡くなったそうで、その最期を一休が看取ったといいます。しかし、この逸話には江戸時代の戯作者、山東京伝(さんとうきょうでん)の創作が多分に含まれているだろうことを付け加えておきます。
そしてこの二人の物語が江戸の人々にたいそう愛されたのです。
地獄太夫が明治の世に現れた
では、明治時代の幻太夫とはどんな女性だったのでしょうか。彼女は新吉原の品川楼で「地獄太夫の再来」と評判になりました。
打掛の背には阿弥陀像、中着は卒塔婆と髑髏をあしらった着物で部屋には観音菩薩、勢至菩薩、閻魔大王の像を置いたといいます。したたかな女性だったようで、その意図は分かりません。「地獄太夫の再来」という名声を狙ったことも考えられます。
幻太夫はのちに今の東京大学近く、根津にあった遊郭に移ります。そこで、月岡芳年と出会い、一時期は深い仲となりました。
幾百の男を引きつけた幻太夫
根津遊郭は1887年に現在の江東区東陽一丁目周辺に移転し洲崎遊郭となります。第二次大戦後は洲崎パラダイスと呼ばれた場所で、1956年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』の舞台となった歓楽街です。
その洲崎遊郭への移転50周年に洲崎の三業組合(三業とは料理屋、待合、芸者屋のことでいずれも遊女のとの関わりが深い)が編纂した『洲崎の栞』に幻太夫を回想する記述があります。
「口元の締まった細めの容色は何と曰うても幾百の男を引き付けずには置かなかった」
「彼女が平素用いた仕掛(遊里では打掛をしかけと呼ぶことがありました)は何れも芳年と曰う若き書家の手になり、その彩色は当時卓絶したものだと曰はれて居る」
「好んで髑髏を書いた仕掛を用ゐた為に誰曰うとなく地獄太夫と曰ふ様になった」
増上寺で鳴らそうとした地獄の鐘
そして次のような興味深い話が綴られるので現代語に意訳します。
「髑髏に百鬼夜行の姿を配した打掛を着て、幻太夫が増上寺で地獄の鐘をつこうとした。だが、わけあって実現しなかった。
才色ともに絶世の地獄太夫(幻太夫のこと)が芳年の絶妙なる髑髏の打掛を着たところは心すくような思いがする。
彼女が増上寺の鐘をつく気になったのはなぜか。無間地獄というのは極悪非道の人間が落ちるところだ。幻太夫は百八つの鐘をつき、一切の煩悩を断ち現世の罪障を滅したかったのだろう」
50周年を記念する栞にこの話を盛り込んだのは、根津遊郭からの歴史を振り返るとき、幻太夫の存在が脳裏に深く刻まれるものだったからではないでしょうか。
根津遊郭が洲崎に移転したのち、幻太夫の行方は分からなくなりました。
幻太夫を描いた小説に杉本章子の『妖花』があります。ご興味のある方はぜひ。
参考資料
『妖花』杉本章子
『洲崎の栞』洲崎三業組合編纂