Trivia おすすめコース
JR御茶ノ水駅→茗渓通り→ニコライ堂→太田姫稲荷神社→椋の木→聖橋→湯島天神→神田明神→折り紙会館→妻恋神社→湯島天神→美術茶房 篠
前編はコチラ
後編では神田明神から湯島天神へ。日本の折り紙文化と神話にふれながら歩く道です。「お茶の水 おりがみ会館」と妻恋神社には必ず立ち寄りたいところ。では、さっそく!
江戸時代の縁起物「夢枕」の版木が消えた
神田明神をあとに清水坂下の交差点へ。もしお腹がすけば、少しルートをそれて、うどんの「竹や」はいかがでしょうか。名物は「海老天カレーうどん」。クリーミーでコクが深いつゆを飲み干しそうになる一杯。
清水坂下の交差点に出たら、左折して「お茶の水 おりがみ会館」へ。創業は安政5(1858年)。染紙業から店の歴史が始まります。
初代、小林幸助が上野寛永寺の書画の軸や屏風、襖を表装する表具師(ひょうぐし)」だったそう。現在、こちらの会館では繊細な質感の美しい和紙や精巧な折り紙作品の見学ができますよ。
また、「夢枕」の版権を所有していることでも知られます。「夢枕」というのは江戸時代、正月二日の夜、枕の下に敷いて寝ると「一富士二鷹三茄子」の吉夢を見るといわれ、庶民に人気だった刷り物。
万治年間(1658-61)に創案された「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の二枚の夢枕は、妻恋神社(当時は妻恋稲荷)がその版権を所有していました。
夢枕を刷るためには版木が大切な存在ですが、妻恋神社の社殿が戦災で焼けて、その版木も行方不明となりました。社殿とともに焼けてしまった、そう誰もが思っていたのです。
ところが、昭和52年12月、ある摺師の家で夢枕の版木が見つかります。妻恋神社の歴史とも関係するとても貴重な版木。そこで「お茶の水 おりがみ会館」が版権を譲り受けて管理するようになり、夢枕が復活しました。
現在、妻恋神社では夢枕として「吉夢(よいゆめ)宝船」と「吉夢(よいゆめ)七福神宝船」が授与されています。
江戸で人気の妻恋稲荷と日本武尊の悲話
江戸時代後期、一番人気の稲荷神社は王子稲荷でした。しかし、妻恋稲荷も王子稲荷と並ぶほどの人気だったといいます。
江戸名所の神田明神や湯島天神に近く、妻恋の杜は江戸名所図会にも描かれました。人気絵師の国貞や落合芳幾も妻恋稲荷を描いています。じつにありがたい稲荷の夢枕だったのです。江戸の庶民にもさぞ人気があったことでしょう。
ちなみに、現在の妻恋神社で授与される縁結びのお守りがよくて。「恋」の一文字なのです。
そもそも「妻恋」とはなんとも意味ありげな言葉だと思いませんか。その由来には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の神話が深く関係しています。
それは日本武尊が東国平定の旅に出たときのこと。三浦半島から房総半島へ船で浦賀水道(三浦半島から房総半島への最短ルートと考えてください)を渡ろうとしました。
ところが、海が荒れ狂い、一行を乗せた船は波にのまれそうになります。これは海神の怒りに違いない。船には日本武尊の妻、弟橘姫(オトタチバナヒメ)がいました。意を決した姫はその身を海に投げ、海神の怒りを鎮めたのです。
日本武尊は命を救われます。
妻を想う気持ちが地名となり残る
陸に上がり、悲しみにくれる日本武尊。妻を想うとその場所を離れることができません。
「君(日本武尊)去らず」
諸説のひとつですが、以来、その地を「きみさらず」と。やがて「きさらづ(木更津)」と呼ぶようになりました。
弟橘姫の着物の袖が流れついた地は「袖ヶ浦」。
姫の笄(こうがい/結髪用具)が流れ着いたとされる場所もあります。亀戸浅間神社が建つ場所で、古くは笄塚と呼ばれ、信仰の地となりました。
また、次のような話も伝わります。日本武尊が東国を平定した帰路、碓氷峠で妻を失った東方を見て「吾妻(あづま)はや」と嘆いたのです。以来、東を「あづま」というように。
妻恋稲荷の縁起では「途中(東征の)日本武尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は、尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのがこの神社の起りと伝える」とあります。なんとも切ない愛の物語が妻恋神社にはあったのです。
現在では社務所に常駐する方のいない、あまり目立たない神社ですが、その歴史は古くロマンあふれる物語が眠っています。
広重も描いた江戸名所「湯島天神」
妻恋神社から湯島天神へはほぼ一直線の道。周囲を見ながら歩けば、右側の土地が急に落ちて、台地の縁(へり)を歩いていることに気づくかもしれません。
まさに、本郷台地の端っこを行くのです。
湯島天神に到着すると最初に銅製の鳥居をくぐることになります。1667年に造成された鳥居で都指定文化財です。
天神様こと菅原道真を祀る神社ですので、現在は受験の合格祈願で有名ですが、江戸時代は景観の良さで知られる名所でもありました。
広重の絵を見てみましょう。三十八段の急な階段の男坂を上ると、鳥居の左右に料理屋らしきものが見えますね。男女の姿が楽しそう。
ここは江戸の一大名所、不忍池を見下ろす高台の神社だったのです。
湯島天神にゆかりの深い人物としては、明治~昭和初期の文豪・泉鏡花(1873~1939年)がいます。
若いころに近辺で下宿をしており、代表作『婦系図』では湯島天神が舞台ともなりました。
境内の梅園には泉鏡花の筆塚があります。鏡花の死後、その死を惜しむ仲間たちが、ここに鏡花の筆などの遺品を埋めたのです。その筆塚は苔むした太鼓橋と池のほとりに佇み、情感のある風景となっています。
境内を男坂のほうに向かってみましょう。銅製鳥居とは別の鳥居が見えてきます。その右手にはガス燈のレプリカ。ガス燈といえば、明治の文明開化を象徴するものですが、湯島天神の境内にも5基あったそうです。
そのうちの一つが、この鳥居のそばにありました。明治時代の浮世絵師、井上安治(1864~69年)が描いた風景からも確認できます。
現在の写真と比較してみましょう。この光景が明治時代とそう大きく変わらないことが分かるでしょうか。
このようにお茶の水から湯島天神への散歩道はじつに江戸や明治の名所だらけ。最後は男坂下の「美術茶房 篠」で甘味などいかがでしょう。昭和を感じる落ち着いた店内で散歩の疲れを癒して。筆者の好きな甘味処です。今回の散歩はこれにて。