Trivia!
丸の内にはかつてロンドンやニューヨークを彷彿とさせる街並みがあった
大正時代に建築されたビルが丸の内に健在している!
東京の表玄関・東京駅。約5年をかけた丸の内駅舎の保存復元工事が2012年に終わり、現在は建設当時の外観を忠実に再現した駅舎が利用者を迎えます。
今回の散歩は明治、大正期の丸の内。そこには倫敦(ロンドン)と紐育(ニューヨーク)と呼ばれる街がありました。
岩崎弥之助が引き受けた荒れた土地
江戸時代の丸の内一帯を古地図で見ると、大名屋敷が集まる場所だったことが分かります。「丸」とは曲輪(くるわ/城の内外を堀や石垣、土塁などで区画した区域)のことで、当時は御曲輪内と呼ばれていました。
明治時代になると陸軍の兵舎や練兵場となります。しかし、草の生い茂る荒れ地が広がり、当時の丸の内に現在の巨大オフィス街を予期させるものは何もありません。
やがて、陸軍は広大な用地を必要として郊外へ移転。その費用を捻出するために丸の内の一帯は民間へと払い下げられます。
この時、その広い土地を引き受けたのが三菱社の第二代総帥、岩崎弥之助(いわさきやのすけ)でした。丸の内は三菱社が開発する土地として「三菱ヶ原」とも呼ばれ、大きな変貌を遂げていきます。
一丁倫敦は三菱一号館から始まった
明治27年(1894)のこと。かつての江戸城の馬場先御門(この門内にあった馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧したことが由来)前、現在の馬場先通りに面した一角にオフィスビルとして三菱一号館が建築されます。
明治政府の建築顧問であったイギリス人、ジョサイア・コンドルによる設計で、煉瓦造、イギリスの建築様式でした。
当時の姿を知るには現在の三菱一号館を見るのが最適でしょう。昭和43年(1968)に老朽化により解体されますが、2009年に建築当初の姿にできる限り忠実に復元されました。
建物のなかには三菱一号館美術館が入り、中庭に通じる小道には当時の丸の内を偲ぶようにガス燈が設置されています。
この三菱一号館を皮切りに一帯に煉瓦造の建物が次々と建築されていきます。こうして馬場先通りを中心に赤煉瓦のオフィス街が誕生するのです。イギリスの首都・ロンドンを彷彿とさせる街並みは「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれました。
ちなみに三菱二号館として建設された建物は明治生命の本社として使用されます。その建物は昭和5年(1930)に解体され、跡地に建設されたのが1934年竣工で今も現役の明治生命館でした。
燃えない街。江戸から続く切実な願い
丸の内より先に煉瓦街が形成されたのは銀座でした。きっかけは明治5年(1872)の銀座大火です。この火事により丸の内、銀座、築地などの東京の中心地が焼失しました。
東京は江戸時代からいくたびも大火に見舞われてきた街です。近代化を図る上で建物の不燃化は切実な問題でした。
かくして丸の内にも耐火建築である煉瓦造が採用され、大正3年(1914)12月20日、その傑作ともいえる東京駅が開業します。
設計者はジョサイア・コンドルの弟子で日本銀行本店の設計でも知られる辰野金吾(たつのきんご)。当時の姿を知るには現在の東京駅丸の内駅舎を見るのが一番でしょう。
ちなみに丸の内駅舎内に東京ステーションホテルがあります。このホテルを定宿としたのが松本清張で、代表作『点と線』の時刻表トリックもここで思いついたといいます。
一丁倫敦から一丁紐育へ
東京駅の誕生により、丸の内の中心地が馬場先通りから東京駅正面の行幸(みゆき)通りに移動します。
一丁倫敦はイギリス式の煉瓦造でしたが、行幸通り周辺の開発はアメリカ式へと変化します。アメリカ式とは効率性を重視した鉄筋コンクリートによるオフィスビルです。
なぜアメリカ式へと変化したのか、それは世界の中心がロンドンからニューヨークに移り、最先端の技術がアメリカにあったからだともいえます。
東京駅が首都の表玄関であるなら、丸の内は首都を象徴する街。世界の都市に引けを取らない街を目指してアメリカの建築技術を取り入れたというわけです。
そしてこのアメリカ式の街並みが「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれるようになるのです。
日本工業倶楽部会館と明治生命館に見る一丁紐育
当時の一丁紐育の建築を今に伝える建物、それが日本工業倶楽部会館です。大正9年(1920)の建築。三菱一号館に見る煉瓦造とはまるで異なる存在感があります。
日本工業倶楽部は有名実業家たちが日本の工業を発展させるために設立した法人で、戦後は経団連の設立にも関わっています。この建物は一丁紐育を牽引する実業家たちが集まる場でもありました。
ここで先に紹介した明治生命館の歴史を改めて。
明治生命館(1934年竣工)はアメリカ式の鉄筋コンクリート建築です。煉瓦造の三菱二号館を取り壊して同じ場所に建築されました。つまり、煉瓦造の建築はすでに時代遅れで、一丁倫敦が終焉を迎える出来事だったともいえます。
それもそのはずです。大正12年(1923)の関東大震災で煉瓦造の一丁倫敦は大きな被害を受けたのです。これに対して一丁紐育は被害が少なく、その優位性は明らかでした。
丸の内にはかつて一丁倫敦と一丁紐育がありました。その記憶を刻む建物を現在でも見ることができます。じつに素敵な街だと思いませんか。