Trivia おすすめコース
JR四ツ谷駅~四谷門の石垣~迎賓館~紀伊国坂~紀尾井坂~ホテルニューオータニ~清水谷公園~弁慶橋~豊川稲荷東京別院~美喜井稲荷~日枝神社~旧満ん願ん跡~国会議事堂
名所旧跡が豊富で景観の変化が楽しい散歩道。意外な歴史や発見が随所にあります。狐、猫、猿の神仏の使いと出会う神社仏閣も見どころのひとつ。歴史トリビア満載のコースを歩こう。
橋灯のデザインも見どころ。レトロな四谷見附橋
JR四ツ谷駅を出るとすぐ目に飛び込んでくるのがレトロな雰囲気の四谷見附橋。大正2(1913)年に架橋され平成3年に架け替えられています。
この橋の高欄や橋灯は橋から見える迎賓館と同じネオ・バロック様式。迎賓館との調和をはかるためで旧橋のものを現在の橋でも再利用しています。
橋の下には深い堀。ここはもともと江戸城の外堀で、現在はJR線が走ります。
じつはこの橋の上から、江戸時代のある遺構を見ることができます。それは四谷門(江戸城に置かれた見張り門のひとつ)の石垣。
石垣下段のわずかな部分が残るだけですが、そこに見えるのは紛れもなく江戸の名残です(石垣が見えるポイントはマップでご確認ください)。
重厚で豪華絢爛。圧巻の迎賓館へ
四谷見附橋から迎賓館へ。明治42年(1909)に建築された豪華絢爛な洋館で、その重厚感たるや。当時の西洋風建築の最高傑作といっても過言ではないでしょう。正式には迎賓館赤坂離宮といいます。
現在は国賓の接遇や宿泊のための施設ですが、建設当初は嘉仁親王(のちの大正天皇)が住まう東宮御所(皇太子の御所)でした。しかし、華美に過ぎてほとんど使用されなかったそう。
迎賓館の裏手、庭園の奥には緑豊かな赤坂御用地の敷地が見えます。秋篠宮邸や高円宮邸などがここにあるわけです。この広大な敷地、江戸時代には紀州徳川家の上屋敷がありました。
迎賓館は一般公開もされているので、本館内部を見学することができます(本館内部・庭園の見学は一般1,500円、庭園のみの見学は一般300円、公開日及び時間は事前にHPでご確認ください)。
ビール工場ができるほどに清い水が湧いた清水谷公園
迎賓館からは赤坂御用地の塀に沿って下りましょう。今回のコースでは紀伊国坂に出たところで紀尾井坂方向へ左折しますが、紀伊国坂という名称が紀州徳川家の屋敷に由来することは想像しやすいですね。
この紀伊国坂を舞台にした小泉八雲(1850~1917)の『むじな』という物語をご存じでしょうか。貉(むじな)に化かされた男がのっぺらぼうと遭遇する怪談です。かつては、そんな怪談が生まれるほどに木々の生い茂る暗い坂だったようです。
さて、紀尾井坂へ。紀州、尾張、井伊の屋敷があったことから紀尾井坂。幕末から明治にかけて活躍した元薩摩藩の武士で政治家の大久保利通(180~1878)が暗殺された「紀尾井坂の変」で知られます。
明治天皇に謁見するため赤坂御所(赤坂御用地)へ向かう途中の出来事でした。実際の暗殺現場は紀尾井坂に近い現在の清水谷公園だとされ、清水谷公園には大久保利通の哀悼碑が建てられています。
周囲を柵で囲われた哀悼碑を注意深く見ると、その中に「デイゴ」と木札に記された木があることに気がつきます。しかし、これはおそらくアメリカデイゴでしょう。沖縄の「デイゴ」は本土では生育せず、本土で見られるのはアメリカデイゴだとされますから。
アメリカデイゴは鹿児島県の県木。薩摩藩士の大久保を慕う方々が植樹されたのでしょうか。おなじく薩摩藩士、上野の西郷隆盛の銅像そばにもアメリカデイゴが植樹されています。
ところで「清水谷」とはとてもきれいな名称だと思いませんか。江戸時代は清らかな水の湧く場所で、明治時代には桜田ビールという人気ブランドの醸造工場が近くにできたほどです。
現在は人工池となっていますが、緑の深い公園です。鶯の鳴き声を聞き、アオダイショウに遭遇したこともあります。
玉川上水の石枡を見て江戸の土木技術に驚く
もうひとつ見ておきたいものは、公園内にある玉川上水の石枡(いします)。
玉川上水の採水地は43キロも離れた多摩川の上流、羽村。江戸時代、その水を玉川上水で四谷大木戸まで送り、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水しました。
左の石桝の穴に木樋を通したそうで、このように大きな石枡を埋めて配水する江戸の土木技術に驚きます。
公園の向かいに目を向けると、格式高いホテルニューオータニが見えます。建物の上には円形のスカイラウンジも。現在は老朽化や安全面への配慮から停止していますが、以前は、スカイラウンジの床が回転し、食事をしながら360度の眺望を楽しむことができました。
ホテルニューオータニができたのは1963年、東京オリンピックの前年です。国家の威信をかけた一大イベントに東京のホテル数が足りず、赤貧から身を起こし昭和の鉄鋼王と呼ばれた大谷米太郎に政府関係者が打診して建てられました。
スカイラウンジの設計は日本の技術力を世界に知らしめるひとつのチャレンジでした。なにせ直径45mもある円形の建築物を回転させようというのですから。当時、それほど大きな回転展望台を造る技術はありませんでした。
いかにしてこのミッションを可能にするか。たどりついた答えが第二次世界大戦で撃沈されたあの戦艦大和の主砲台の回転技術だったといいます。
大和とともに眠っていた技術が再びよみがえったのです。(続きは後編へ)