Trivia!
江戸には地蔵菩薩像の結界があった⁉
鬼の形相の奪衣婆は江戸時代の流行神だった
新宿二丁目。そこは江戸時代、内藤新宿と呼ばれた賑わいある宿場町でした。
太宗寺は内藤新宿の由来となった高遠藩内藤家の菩提寺で、江戸三大閻魔(善養寺、華徳院、太宗寺)のひとつで知られた浄土宗の寺。
正式には霞関山本覚院太宗寺(かかんざん ほんがくいん たいそうじ)といいます。
こちらのお寺、謎めいた伝承と歴史ミステリーが随所にあって大変興味深いのです。
江戸の結界か。太宗寺の地蔵像と夏目漱石
太宗寺の境内を入ると、右手の大きな地蔵菩薩像に目を奪われます。
これは江戸六地蔵のひとつ。
一般的に六地蔵とは、寺の境内や道の辻などでお地蔵様が六体並ぶものをいいます。
仏教では人が死ぬとその業に従って六道と呼ばれる六つの界のどれかに赴くとされ、それは地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六つ。
どの界に落ちても地蔵菩薩が姿を現し、迷う魂を救ってくださいます。それを六体の地蔵で象徴しているのですね。
一方で江戸六地蔵とは、深川の地蔵坊正元(しょうげん)という人が寄進を募り、宝永3年(1706)より14年かけて造立した座高3m弱の六つの地蔵像のこと。それぞれ異なる場所に鎮座します。
正元は長い歳月をかけて、このように大きな地蔵像を造立したのですが、その理由は若いころに患った大病にあります。
病を治したい。その一心で正元と両親は地蔵菩薩に祈ったのです。病が癒えたあかつきには地蔵像をたくさん造立しますから、なんとか治してほしいと。
熱心な祈りが天に届いたのでしょう。無事に病気から回復して、元気になった正元。
もちろん地蔵様への誓いを忘れません。正元は江戸の主要六街道の出入口に地蔵像を造立したのです。全部で六体、これを江戸六地蔵と呼びます。
しかし、そのうちのひとつは現存していません。今見ることができるのは五体です。
江戸六地蔵
第一番 品川寺(旧東海道)
第二番 東禅寺(奥州街道)
第三番 太宗寺(甲州街道)
第四番 真性寺(旧中山道)
第五番 霊巌寺(水戸街道)
第六番 永代寺(千葉街道)→現存せず
ここで、現存する江戸六地蔵の位置を地図で確認しましょう。まるで江戸の町を囲み守っているかのように見えませんか?
様々な解釈があるにせよ、江戸六地蔵は江戸を守護する結界だと見ることもできます。
地蔵像には集落の外からやってくる「魔」の侵入を防ぎ、地域を守る道祖伸(村境や峠、辻などにあって外部からの疫病や悪霊を防ぐ神)のような性格がありますから、江戸の内と外をつなぐ主要街道の出入口、つまり江戸と外部の境界に造立したことに不思議はないのかもしれません。
さて、ここでとある歴史上の人物の話をしましょう。その人は太宗寺の境内で地蔵像によじ登って遊んだことを告白しています。
明治の文豪、夏目漱石(1867~1916年)です。
漱石はその思い出を『道草』のなかに描写しています。
「彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉(つら)まったりして、後(うしろ)から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た」
『道草』
のちに千円札の肖像画となるお方。その遊び相手を太宗寺のお地蔵様がしていたのかと思うと親近感が湧いてきますね。
ちなみに、太宗寺の地蔵像によじ登った有名人は漱石だけではありません。俳優の薬師丸ひろ子さんもその一人。映画『セーラー服と機関銃』で地蔵像の膝の間に座るシーンがあるので、ご興味のある方は映画で確認してください。
太宗寺の大閻魔像と奪衣婆像の迫力
境内の閻魔堂には高さが5.5mもある閻魔像と皺だらけの顔をした奪衣婆(だつえば)像が鎮座しています。それはまるで地獄の審判。かなりの迫力です。
奪衣婆とは、三途の川のほとりで亡者から衣服をはぎ取る鬼婆のこと。その衣服の重さで死者の罪の軽重を量る恐ろしい存在で、江戸時代の流行神でもありました。
なぜ怖い形相の鬼婆が流行ったかというと、奪衣婆に祈って自分の死後の裁きを軽くしてもらおうというわけです。ほかにも、疫病除けや咳止め、子どもの百日咳にご利益があるといわれました。
三途の川を渡って最初の関所ともいうべき存在が奪衣婆です。「せきのおんばさん」と呼ばれましたから「関」が「咳」へと転じて生まれた信仰ですね。
太宗寺の閻魔像が安置されたのは文化11年(1814)。奪衣婆像のほうは明治になって安置されていて、閻魔像にくらべれば新しい。
おそらく、太宗寺裏手にある正受院の奪衣婆像が江戸期から庶民の信仰を集めていたので、それにあやかったのではないでしょうか。
幕末期の正受院は奪衣婆像を目当てにした参拝者が列をなすほどだったといいます。
一方で、明治になって太宗寺に安置された奪衣婆像は高さ2.4mと、とても大きい。これほど大きな奪衣婆像をよそで見ることは難しく、正受院の奪衣婆も驚いたに違いありません。
また、太宗寺の場合は、奪衣婆の衣服を剥ぐ行為を由来にして、内藤新宿の妓楼の人々から商売の神として信仰されました。
内藤新宿には遊女を抱えた旅籠がいくつもありましたから、お客の衣服を脱がせてなんぼの商売ですね。
目玉を抜かれた閻魔様
奪衣婆像に続いて閻魔像。太宗寺の閻魔は江戸時代から「内藤新宿のおえんま様」と庶民の信仰を集めました。
ところが、弘化4年(1847)にある事件の「被害者」となってしまいます。
そのいきさつを江戸の情報屋こと「藤岡屋」の『藤岡屋日記』から抜粋しましょう。
閻魔の目玉抜き取られる
三月六日夜、四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶なし…。
『藤岡屋日記』
これを簡単に書くと、
「三月六日の夜、盗賊が太宗寺の閻魔像の目玉を盗んだ。これが大きな噂となり、絵草紙が出回った。それによると、運慶作の閻魔像の目玉は水晶で、これを盗もうとした盗賊は閻魔の目から放たれた光で気絶して倒れてしまった…」
この後も話は続きますが、閻魔が目から光を放つなどだいぶ誇張されていることがわかります。江戸に出回った絵草紙では、事実がさらに誇張されて面白おかしく伝えられました。
実際のところ、この盗賊はその場で捕まったそうで、庶民の間で、これは閻魔の霊験ゆえのことと評判になったのだとか。
興味深いことに、太宗寺の閻魔像にまつわる伝承はこれだけではありません。閻魔様が子どもを食らったという恐ろしい伝承があるのです。お話の続きは後編へ。