Trivia!
江戸時代、生きながら大日如来と呼ばれた女性がいた
江戸の老舗紙屋と小津安二郎に意外な関係があった
日本橋本町3丁目(江戸時代は大伝馬町)にある「於竹(おたけ)大日如来井戸跡」。
江戸に実在したお竹(1623~80)が使用したとされる井戸で、1653年創業の老舗、小津和紙の一角にあります。
このお竹さん、美しいだけでなく、心が清く優しすぎると江戸中に知られた女性でした。お竹の死後、第5代将軍綱吉の母、桂昌院(1627~1705)はこんな歌を詠んでいます。
ありがたや光と共に行く末は 花のうてなにお竹大日 ※「花のうてな」とは極楽往生した人が座るという蓮の花の台
桂昌院の耳に入るほどの女性であったことが分かりますね。
一粒の米、一きれの野菜も粗末にせず
於竹大日如来の縁起には次のように記されています。
「その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため、お竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという」
お竹は羽黒山麓の山形庄内に生まれて、18歳で大伝馬町の豪商、佐久間勘解由(さくまかげゆ)の屋敷に仕える奉公人となりました(佐久間家を馬込家とする説もあります)。
とにかくよく働き、人の嫌がる仕事も進んでこなす。自分の食事を貧しい人や動物に分け与え、お竹自身は洗い物の際に流れる米粒を集めて乾かし、それを自分の米とする仏のような女性でした。
その噂は江戸中に広まり、羽子板や凧にその姿が描かれるほどだったといいます。
そしてある日、不思議な出来事が起こるのです。
山伏の見た夢が「お竹は大日如来の化身」と告げた
武蔵国熊谷に乗蓮(じょうれん)という羽黒山伏がいました。毎年、出羽三山への参詣を続け、ようやく三十三年目の満願の日を迎えます。玄良坊の宿坊で寝ていると夢でこんなお告げがあったのです。
「江戸大伝馬町の佐久間家の奉公人、お竹は大日如来の御化身である」と。
それはぜひ会わねばと、乗連は玄良坊とともに佐久間家を訪ねます。そして、お告げの内容を伝えました。
驚いたのは佐久間の主人。
そんなありがたい女性に奉公人などさせるわけにいかないと、お竹さんのために持仏堂(日常的に礼拝する持仏や先祖の位牌を安置する堂や部屋)を用意するのです。
それからというもの、お竹さんは念仏を唱える日々。そんな彼女を拝もうと佐久間家には多くの人が訪れ、列をなしたそうです。
お竹が詠んだという次の歌が伝わります。
手と足は忙しけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて
とても明るい気立ての良い女性を想像させますね。
於竹大日如来の出開帳が江戸で人気に
お竹の墓碑によれば、亡くなったのは1680年のこと。善行を尽くしてこの世を去りました。
しかし、話はこれで終わりません。
桂昌院は彼女の死を悼み、芝増上寺内の心光院にお竹大日如来像とお竹が使用した流し板を寄進、奉納します。
佐久間家はというと、お竹と等身の木造を彫刻し、のちに出羽山正善院の於竹大日堂に安置しました。
すると、その出開帳(寺社の神仏をよそに出して行う開帳)が江戸で人気となるのです。
江戸後期のことですが、両国回向院での出開帳は、江戸の情報屋こと藤岡屋も日記に書き残しています。
嘉永二年(1849)の『藤岡屋日記 第三巻』に「於竹大日如来開帳・見世物」として
“三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於いて開帳”と。
於竹の死後、170年あまり後のことです。しかし、このような出開帳は羽黒山伏の布教戦略だともいうから面白いものです。
そのほか、小林一茶(1763~1828)も、お竹の句を残しています。
雀子やお竹如来の流し元 雲の日やお竹如来の縄たすき
お竹と小津和紙の創業者には特別な関係があった?
ところで、冒頭の於竹大日如来井戸跡がある小津和紙とお竹との関係が気になりませんか。
じつは小津和紙の創業者、小津清左衛門長弘が佐久間家に奉公していたことがあり、お竹と顔見知りだったことが考えられるのです。しかし、この二人の関係の詳細は伝わっていません。
小津家にはお竹大日如来の木像が伝えられていて、関東大震災で焼失してしまいますが、それまでは毎月19日の月命日に開帳していたそうです。ひょっとすると二人には何か特別な関係があったのかもしれませんね。
現在は、小伝馬町にある大安楽寺に於竹大日如来の木像が安置されています。お竹の命日とされる5月19日前後に毎年大法要が行われているとのことです。
映画監督の小津安二郎と小津家
最後になりますが、この小津家に貞享(1684~89)のころ、新兵衛という者が奉公しました。首尾よく勤め上げ正徳6年(1716)に支配人を退役したといいます。その功績から「小津」の苗字を使うことを許され小津清左衛門の分家「小津輿右衛門」を名乗ります。
そして「湯浅屋」という干鰯(ほしか)問屋で財を成します。その湯浅屋の江戸店で代々支配人を務めたのが「小津輿右衛門」の分家である「小津新七家」でした。明治36年(1903)、深川東京支店の支配人(小津新七家)に男の子が生まれます。それが、映画監督の小津安二郎でした。
主な参考資料
小津330年のあゆみ