散歩コース

文豪と坂と樋口一葉と。昭和情緒が漂う本郷を裏路地散歩!(前編)

Trivia おすすめコース

東京メトロ本郷三丁目駅~かねやすビル~赤門~法真寺(桜木の宿)~金魚坂~まるや肉店~本妙寺跡~菊富士ホテル跡~石川啄木、金田一京助旧居・赤心跡~徳田秋声旧宅・終焉の地~鳳明館~宮沢賢治旧居跡~炭団坂~坪内逍遥旧居・常盤会跡~金田一京助旧居跡~樋口一葉旧居跡~伊勢屋質店~ゑちごや~樋口一葉終焉の地

起伏に富んだ坂の多い道々。本郷は明治、大正、昭和の文豪たちが数多く暮らした土地で、裏路地を歩けば今でも昭和の香りが漂ってきます。

本郷台地の高台から坂を下れば、水の流れに削られたような谷底を行く道があります。それが菊坂下道。明治時代の悲しき女流作家、樋口一葉(ひぐちいちよう)が苦しい生活を送った場所でもありました。

樋口一葉(1872~1896年)

樋口一葉とは

明治5年(1872)、樋口家の次女として生まれます。

幼いころの家庭は裕福でした。学業は優秀。しかし、小学高等科第四級を主席で卒業するも母の方針により進学を断念します。その時の気持ちを一葉は「死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止めになりけり」と日記に書き残します。

明治20年、長兄の泉太郎が23歳の若さで亡くなります。その2年後、今度は事業に失敗した父が負債を残して死去。一葉には次兄がいましたが、父母との折り合いが悪く分籍していたので、一葉が家督を継ぐことになります。一葉、17歳のとき、母と妹との3人暮らしが始まります。

一家の大黒柱を失い、貧困ともいえる苦しい生活のなかで、内職や雑貨店を開くなどして懸命に生きる一葉。文筆においては『たけくらべ』『にごりえ』などの作品を発表し、森鴎外(もりおうがい)や幸田露伴(こうだろはん)から高い評価を受けます。

しかし、当時は不治の病とされた肺結核を罹患し、24歳でこの世を去ります。樋口一葉は悲運薄命の才能ある女性でした。

東京の街に坂がたくさんある理由とは

本郷というと真っ先に思い浮かぶのが東京大学の本郷キャンパス。その広い敷地は、江戸時代、加賀藩前田家の上屋敷でした。

東大を象徴する赤門も、もともとは加賀藩13代藩主、前田斉泰(なりやす)が11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘・溶姫(やすひめ)を正室に迎える際に造られた御守殿門です。赤門前の通りがかつての中山道

このあたりは坂が多い土地です。東京の地形は特に山手線の内側で起伏が多いのですが、それというのも埼玉県の川越市を北端とする広大な武蔵野台地の東端に位置するからです。

武蔵野台地の地層には水を通さない粘土層があり、粘土層の上では地下水が水の流れをつくります。その流れがやがて台地の東端を削り、起伏のある地形を生みます。

こうして削られた武蔵野台地東端にはそれぞれ名称があり、そのひとつが本郷台地。今回の本郷散歩では台地の高低が織りなす地形と坂を楽しみましょう。

本郷もかねやすまでは江戸の内

ではさっそく。東京メトロ丸の内のA2、A3改札を出て右へ。商店が並ぶ路地の先に見える大通りが中山道です。

本郷三丁目交差点へ。その角地に惜しまれつつも閉店した「かねやす」のビルがあります。

「かねやす」は江戸時代から知られる有名な小間物屋(こまものや/日用品、化粧品など小さな雑貨を商う店。対して草鞋、桶、箒などの道具類を商うのが荒物屋)です。

元禄年間(1688~1704年)、この店が乳香散(にゅうこうさん)という歯磨き粉を売り出したところ、江戸の女性たちに大人気になりました。

本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳があります。中山道沿いの街並みが瓦葺きから茅葺きに変わり急に田舎になる「江戸の町もここまでだな」という場所に「かねやす」はあったのです。

樋口一葉の足跡も。明治24年(1891)の日記に「かねやすにて小間物をととのふ、日暮れて帰る」と書いたのがこの店です。いまから約130年前、樋口一葉は確かにこの地に暮らしていました。

本郷三丁目交差点を渡り、かつての中山道を赤門まで。赤門の対面あたりに法真寺があります。じつはこの寺の東側に樋口一葉が4歳から10歳までを暮らした家がありました。

一葉はのちにその家を「桜木の宿」と呼び、家庭がまだ裕福で幸せだった時代として懐かしみます。

法真寺を訪れると一葉塚があります。彼女の生涯を想うと、本を手に幸せそうに腰かける一葉の像が悲しい。

菊坂から細い坂を上ると金魚の養殖場が

菊坂に入ります。とてもゆるやかな坂。しかし、その北側にはさらに高台へと続く傾斜のきつい坂が何本もあります。

そのうちの一本の坂を上ると、江戸時代から続く老舗金魚問屋「金魚坂」が。どうしてこんなところで金魚の養殖を?

養殖場には喫茶店も併設されている。

じつは江戸時代、大名の間で金魚鑑賞のブームがおきるのです。金魚の養殖技術が発達するとやがて庶民にも広がります。これは商売のチャンスと金魚養殖は下級武士の副業となり、金魚売りは夏の風物詩にもなります。

そしてここは加賀前田藩上屋敷のそば。かつては湧水があり金魚の養殖に適した土地でした。一帯では金魚の養殖が盛んだったといいます。

金魚坂をあとに「まるや肉店」へ。名物は菊坂コロッケ。サクッとした衣にほくほくのジャガイモです。

振袖火事。少女の悲しい恋と大火

本妙寺坂を上りましょう。明治時代末まで、この坂上に本妙寺がありました(現在は巣鴨に移転している)。諸説の一つですが、本妙寺は明暦3年(1657)に江戸市中の大半を燃やした明暦の大火の火元だとも。俗にいう振袖火事です。

振袖火事とは 

江戸の町の裕福なとある商家。その家には娘がいました。ある日のこと、道で美しい顔立ちの寺小姓とすれ違い一目ぼれをします。それは身を焦がすほどの恋。寝ても覚めても彼のことばかりで食事も喉を通りません。

これを案じた両親は娘の心を慰めようと、寺小姓が着ていたものと同じ柄の振袖を娘に贈ります。

しかし、娘は衰弱する一方で、ついには死を迎えます。

その亡骸は本妙寺で葬儀することとなり、両親は親心で娘に贈った振袖を棺にかけます。

葬儀が終わり、しばらくすると、この振袖は寺男によって転売。やがて振袖は別の娘の手に渡ります。ところが、間もなくその娘も病で命を失います。

そして、次に振袖を手にした娘もまた…。その度に振袖は棺にかけられ本妙寺へと運び込まれます。

これはおかしい。なにかの因縁か。住職はその振袖を寺で焼いて供養することに。すると、振袖が燃えるその時、突風が吹いて火のついた布切れを宙に巻き上げたのです。

こうして火は別の建物に燃え移り、史上最大の火事ともいわれる明暦の大火が起きたとされます。

田代幸春『江戸火事図巻』

一つ注意したいことが、振袖火事(明暦の大火)と八百屋お七の伝承で知られる「天和の大火」は別の火事であるということ。

どちらも伝承に「娘の恋物語」があるので混同されがちですが、天和の大火は振袖火事よりのちの1683年の出来事です。しかし、お七もまた江戸本郷の八百屋の娘だったとされますから、本郷と関係の深い女性でした。

続きは後編

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