Trivia!
「福徳」の名がめでたい神社は規模の縮小と遷座を繰り返した苦難多き神社だった
芽吹稲荷と名付けたのは第二代徳川将軍秀忠公!
福徳神社の「福徳」とはとてもめでたい言葉。別名を「芽吹稲荷」といってこれもまた縁起の良い名称です。この神社の歴史は1000年を超えるそうですが、じつは何度も危機的な状況を乗り越えた苦難の歴史をたどる神社。
その姿は厳しい冬を立ち枯れることなく乗り越えて芽吹く一本の古木のようです。
福徳神社を崇敬した武将たち
はたしていつごろ創建された神社なのでしょうか。御由緒によれば貞観年間(859~877年)にはすでに鎮座していたといいます。
古くは「稲荷の祠」と呼ばれ、祠が鎮座したのが福徳村だったために、のちに福徳稲荷と呼ばれたと。江戸の地に大きな足跡を残す源義家(1039~1106年)や太田道灌(1432~1486年)など武将の崇敬が篤かったとも。
家康もまた天正18年(1590)に福徳神社を参詣しています。そして二代将軍秀忠も。
御由緒から引用します。
二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月28日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛されました。この時、当社古例の椚(くぬぎ)の皮付き鳥居に、春の若芽の萌え出たのをご覧になり、当社の別名を「芽吹稲荷」と名付けられました。
福徳神社の御由緒より
「福徳」という称号は時の権力者をも魅了したのかもしれません。
いまは消えた浮世小路と雲母橋
江戸時代後期の江戸切絵図を見てください。
切絵図に書き加えましたが、福徳稲荷の左上の小道を浮世小路(うきよしょうじ)と呼びました。
「こうじ」ではなく「しょうじ」と呼ぶのは加賀言葉。古くはこのあたりに加賀出身者が多く住んでいたそうです。江戸時代の浮世小路は料理屋が並ぶとても賑やかな通りでした。
福徳神社の右上、堀留(堀が止まる地点)の手前にかかる橋を雲母(きらず)橋と呼びました。「雲母」とは「うんも」または「きらら」と読むのが常ですが、この橋は「きらず」と読みます。
『中央区史』によれば「きらず橋は伊勢町堀の鍵の手になった最も奥にあった橋で、名義は詳らかでない」とのこと。雲母を「切らず」と読むのは験を担いでのことでしょうか。なんにしても福徳稲荷の周囲には素敵な名称の小路や橋があったわけです。
ここで雲母について少し。雲母とはケイ酸塩鉱物のことですが、平行に薄くはがれやすく、電気絶縁、耐熱材料として用いられるそうです。
じつは浮世絵でも雲母が用いられます。雲母摺(きらずり)といって鉱石を砕いてつくられた絵具に細かく砕いた雲母を混ぜて使用するのです。
光沢が絵に独特な印象を持たせますね。こんな女性が浮世小路の料理屋にいたらドキッとしそうです。
天保の改革で神社存続の危機に
切絵図で見る福徳稲荷は、境内地が意外と小さいことに気づきます。また、福徳稲荷が描かれた場所は現在の神社の場所とは異なります。
現在地で見るなら、雲母橋の左上に位置していなければおかしい。
じつはここに福徳神社の苦難の歴史を見ることができます。
江戸開府当初、福徳稲荷には330坪の境内地があったといいます。それが江戸後期には切絵図に見られるように小さな境内地に。なぜこれほどに縮小したのか。それは日本橋の商業圏がどんどん拡大したからにほかなりません。
五街道の起点でもある日本橋は江戸最大の商業地帯でした。街の発展に飲まれるように福徳稲荷は境内地を小さくしていきます。
福徳神社の最大ともいえる危機が老中・水野忠邦による天保の改革(1830~1843年)でした。逼迫する幕府の財政を立て直すために庶民の暮らしに厳しい統制をかけ、娯楽を徹底的に弾圧し、神職や僧侶などに転居を命じます。
この時、福徳稲荷は一時的に消滅します。
水野忠邦の失脚後、神社は切絵図に描かれた場所で再興されますが、その後も関東大震災での被災、空襲による社殿焼失など、いくたびも苦難の時を迎え、その度に小さな遷座を繰り返します。
ビルの2階の小さなお社が現在の姿へと生まれ変わった
安住の地が見つからない歴史を福徳神社はたどりますが、ようやく現在地に落ち着いたのが昭和48年(1973)のことです。そして現在の立派な社殿ができたのは2014年。
しかし、新社殿ができたとき、驚いた人も多かったのではないでしょうか。突然、新しい神社が現れたと。それもそのはずで、戦後、日本橋一帯がビル化するなかで、福徳神社は当地にあった2階建てのビルの屋上で、ひっそりと祀られていたのです。
お社も本当に小さなもので、そこに福徳神社があることに気づく人のほうが少なかったでしょう。
福徳神社再生のきっかけは、2007年に始まった「日本橋室町東地区開発計画」という名の都市再生プロジェクトでした。
福徳神社の歴史を紐解くと、苦難を乗り越えた先に、芽吹きの時が待っていると伝えてくれます。
仕事や人生で困難に直面したとき、それを転機として、自分の中に新しい芽となる可能性を見つけたい。筆者が福徳神社で授与していただいた「芽吹き守」を財布に忍ばせているのは、そんな理由からです。